劇団四季「鹿鳴館」
15日マチネ 劇団四季「鹿鳴館」四季自由劇場
四季が三島作品をストレートプレイで取り上げる、生前の三島と一緒に仕事をしている浅利さんの演出で、ということだったので制作発表時から気にはなってたものの、なかなかスケジュールが合わなくて1月から始まってたのにようやく観ることが出来ました。
原作ははるか昔に一度読み、粗筋は覚えてるものの文章としてはすっかり忘却の彼方。その後だけどやっぱり昔に帝劇か日生の舞台で数度観た記憶では、絢爛豪華なセットの中で女優さん達が着飾ってて見た目には美しいけどタイクツなお話。
舞台上、降りているカーテンからはみ出して下手側斜めに張り出してる白木の舞台。幕が上がると目に飛び込む時代味を帯びた鏡板に白菊の絵。能舞台を広大な庭園の真ん中に持ってきたかのような錯覚が。芝居とはほとんど無縁のプロセニアムにも丁寧で重厚な仕上げ施されてる。四季の舞台ってホントお金の掛け方がハンパじゃないわ。
そこで繰り広げられるのは、予想に反した緊密な台詞劇。三島の戯曲を立体化したら確かにこうなるだろう、と納得させられる台詞が煌びやかに踊り輝いてる。セットも衣装も贅沢なのだけど控え目で主張をしておらず、あくまでも主役は台詞。役者さんでさえもその台詞を言うために存在している道具であるかのよう。パンフレットの浅利さんの言葉によると『観客を正しく、作家の世界に導く』との姿勢の現れでしょうか?台詞が被ることなく、まさに本を読んでいるように展開していく。普通だったら面白味に欠けるだろうけど、三島の言葉を聞き続けること、それ自体がとても心地良くて。三島は『小説は建築だが、芝居は音楽なんだ』と言ったそうだ。緊迫した心理劇が繰り広げられ観終えた時には心地良い疲労感。なんだこれは??むかしワタシが観たのはホントに鹿鳴館だったの?まるで別物なんですけど。
“『鹿鳴館』は、筋立は全くのメロドラマ、セリフは全くの知的な様式化、という点に狙いがあるので、特にセリフにすべてがかかっている以上、セリフの緊張がゆるめば、通俗的なメロドラマしか残らない。”との三島のコメントを読んで、ワタシがかつて観た舞台は緊張感をどこかに置き忘れたメロドラマだったんだなぁということがよ~く判りました。
役者さんによって多少の違和感がなくもないのだけれど、影山夫人の野村玲子さんが操る三島の言葉はナマに流されることなく毅然としていて美しい。凛とした姿と相俟って世俗と一線を画した世界感を崩すことがない。
野村さん素晴らしかったし、もともと文学座のために書き下ろした杉村春子さんつまり女優さんのための役、なんだろうけど、是非女形さんで観てみたい。と言っても、今の歌舞伎の女形さんでも新派の女形さんでもない気がするのね。三島の言葉を意訳せずに伝えられて、朝子という人物像を描き出せるのは...う~ん...
パンフは写真少な目で文字だらけ。そんなとこも三島を意識してか?生前の三島を知る人々や割腹自殺の現場検証をした佐々淳行さんの寄稿文など。読み応えあり。
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